これからも応援し続けます [東日本大震災から10年]
東日本大震災から10年を迎えるにあたり、新聞、テレビで「10年目の今」が多く報じられています。
印象に残ったのは、「乗り越える」「人それぞれ」という言葉です。
2011年11月に、遅まきながら現地に行くことができました。
震災から半年以上経過していましたので、道路は車が通れる状態になっていました。
ただ、道路わきには瓦礫の山がずらりと並んでいました。
奇跡の一本松を遠目に見ながら橋を渡ったところが、私たちの現場でした。
「瓦礫の分別」という作業を始めましたが、生活を垣間見ることができる品々が地面から出てきて、本当にいたたまれない思いでした。
作業後に、現地の方が当時の様子を教えてくださいました。
すぐそばの高台にある諏訪神社に行きました。
すごく急こう配の階段を登ってお社に行く神社です。
ふもとにあった鳥居は津波で流されていましたが、集められ元の場所に置かれていました。
階段のどのあたりまで水がきたのか、避難したみなさんがこの場所からなにを見つめていたのか…
作業していた道路の両脇に残る住宅の基礎部分から、奪い去られた日常を痛いほど感じながらお話をうかがいました。
今頃になって、諏訪神社の場所を調べました。
今では、発酵パークCAMOCYが近所にできているようです。
いつかお邪魔したいと思っています。
10年経ったので一区切りだ、と思っているわけではありません。
ただ、10年目なので、きちんと思い出し、きちんと考えようと思いました。
これからも、応援し続けます。
印象に残ったのは、「乗り越える」「人それぞれ」という言葉です。
2011年11月に、遅まきながら現地に行くことができました。
震災から半年以上経過していましたので、道路は車が通れる状態になっていました。
ただ、道路わきには瓦礫の山がずらりと並んでいました。
奇跡の一本松を遠目に見ながら橋を渡ったところが、私たちの現場でした。
「瓦礫の分別」という作業を始めましたが、生活を垣間見ることができる品々が地面から出てきて、本当にいたたまれない思いでした。
作業後に、現地の方が当時の様子を教えてくださいました。
すぐそばの高台にある諏訪神社に行きました。
すごく急こう配の階段を登ってお社に行く神社です。
ふもとにあった鳥居は津波で流されていましたが、集められ元の場所に置かれていました。
階段のどのあたりまで水がきたのか、避難したみなさんがこの場所からなにを見つめていたのか…
作業していた道路の両脇に残る住宅の基礎部分から、奪い去られた日常を痛いほど感じながらお話をうかがいました。
今頃になって、諏訪神社の場所を調べました。
今では、発酵パークCAMOCYが近所にできているようです。
いつかお邪魔したいと思っています。
10年経ったので一区切りだ、と思っているわけではありません。
ただ、10年目なので、きちんと思い出し、きちんと考えようと思いました。
これからも、応援し続けます。
探して見つけて [東日本大震災から10年]
2011年3月11日 会社から自宅まで歩いている途中に撮影した1枚です。
この写真がすぐには見つからず、古いPC、保存用HDD、古い携帯電話のデータを探しました。
古い携帯電話から見つけました。
道路沿いのコンビニの棚は空だったこと、飲食店は軒並み満員で外まで行列ができていたこと、車道は大渋滞で明かりには困らなかったことなどを思い出します。
この時、スマートフォンではなく携帯電話を利用していたので、会社のPCで帰路の地図を頭に叩き込み、歩き始めたのでした。
とある場所で、大勢の人が左折する交差点がありました。不安に思いながら、直進していきました。
のちに、友人とバッティングセンターに行ったときに、その交差点に再び差し掛かりました。
見た瞬間に、「あの交差点だ」とわかりました。
人の記憶は、すごいですね。
震災の翌日から首都圏の電車が止まり、通勤できませんでした。
その朝、会社に電話をかけたら、「はいはい、はいはい、はいはい、来なくていいです。」と言われたことを思い出しました。
写真は、様々なことを思い出させてくれます。
教訓をいかして [東日本大震災から10年]
2011年の東日本大震災から学んだこととして、災害時の備蓄があります。
缶詰などの食料をはじめ、カセットコンロも用意しました。
2020年の熊本県の大災害の惨状を目にし、自身の備えが足りていないことを痛感しました。
その1 カセットコンロにも耐用年数があることを知る
耐用年数は10年だそうです。ちょうど、今年10年目です。
耐用年数を知ると同時に、東日本大震災からの年月を実感しました。
その2 テントを買う
避難場所でのパーソナルスペースの確保について、特に考えさせられました。
そこで、テントを買いました。山用のテントです。
買ったものの、まだ家の中で一度設営しただけです。
設営方法が身についていません。
これではいざというときに使えませんから、練習しなくてはいけません。
災害時は公衆電話が無料で使えます [東日本大震災から10年]
今日の一枚は、2011年3月13日(日)の薬師池公園の梅です。
どうして薬師池に行ったのかは、思い出せません。
でも、いいお天気ですね。
2011年3月11日(金)
19時頃会社を出て歩き始め、家に着いたのは日付が変わるころでした。
歩きながら携帯電話(当時はガラケー)を使っていたら、途中で電池が切れてしまいました。
「災害時は、公衆電話が無料で使える」となぜ知っていたのか不思議ですが、国道沿いのコンビニ前の公衆電話から家に電話をかけてみました。
繋がりました!停電していたので、家の電話が使えなかったそうです。
最近は、公衆電話を見かけなくなりましたよね。
今も、災害時は公衆電話を無料で使うことができるのでしょうか?
災害時に、公衆電話を見つけることができるでしょうか?
大切な連絡先の電話番号は、控えておかなくてはいけませんね。
スマートフォンの電源が切れたら、電話番号だって調べられませんから。
ビルの中の河津桜 [東日本大震災から10年]
今日の一枚は、会社の近所で咲いている河津桜です。
東日本大震災の時の勤務場所は、今の場所とは異なりますが、どちらも国道16号線の近くです。
勤務が今の場所になってから、毎年眺めていた桜でしたが、今年は出社頻度が大幅に減ってしまったので、咲いているところを見ることができて、うれしいです。
なにしろ、周囲はビルとビル建設現場ばかりで、わたしにとっては殺風景なのです。
10年前の3月11日、5時間以上歩き続けたのは、国道16号線でした。
車で通ったことはあっても、歩いたことはありませんでした。
歩きながら見た町の様子、考えていたこと、今でも覚えています。
母と連絡がとれず、弟を頼ったことも覚えています。
たぶん、弟に泣きついたのは、あれが初めてです。心強かったな。
弟くん、あの時は、ありがとね♪
東日本大震災の時の勤務場所は、今の場所とは異なりますが、どちらも国道16号線の近くです。
勤務が今の場所になってから、毎年眺めていた桜でしたが、今年は出社頻度が大幅に減ってしまったので、咲いているところを見ることができて、うれしいです。
なにしろ、周囲はビルとビル建設現場ばかりで、わたしにとっては殺風景なのです。
10年前の3月11日、5時間以上歩き続けたのは、国道16号線でした。
車で通ったことはあっても、歩いたことはありませんでした。
歩きながら見た町の様子、考えていたこと、今でも覚えています。
母と連絡がとれず、弟を頼ったことも覚えています。
たぶん、弟に泣きついたのは、あれが初めてです。心強かったな。
弟くん、あの時は、ありがとね♪